上の子の出産


前回の出産は3年前になる。下の子の出産を語る上では語らずにはいられない。

上の子の妊娠が発覚したのはケアマネの仕事を始めて1ヶ月ほど経った頃である。

ケアマネの仕事を始めたと言っても、昔ケアマネをしていた所に再就職したので、勝手知ったる仕事場である。その職場についてはまた後日詳しく話をする事とする。

出産する時の年齢は35歳であるので、昔で言うところの高齢出産ですが、体力もあったため、出産に対する心配はあまりありませんでした。

体を動かすことは元々好きであり、毎日通勤で5kmほど歩いていたので、絶対に安産だと思っていました。

妊娠は順調であり、特に問題もなく産休を迎えられる予定でした。

産休の規定については労働基準法に明確に規定されている。労働基準法第65条第1項には「使用者は、六週間(多胎妊娠の場合にあつては、十四週間)以内に出産する予定の女性が休業を請求した場合においては、その者を就業させてはならない」と記載されています。また、第2項には「使用者は、産後八週間を経過しない女性を就業させてはならない。ただし、産後六週間を経過した女性が請求した場合において、その者について医師が支障がないと認めた業務に就かせることは、差し支えない。」とあります。

私はケアマネという職業を考え、月末まで働きたいと言いましたが、たぶん運営者が給料を支払いたくないとの意思が働き、出産予定日の6週間前からの産休取得を勧められました。

産休を取得していましたが、理由あって結局職場への出勤を余儀なくされ、ボランティアで職場へ出勤し仕事をしていました。主人には「職場に行かないで」と言われたこともありましたが、結局出産直前まで働くこととなったのです。

その事業所のある保険者の市は介護保険の認定調査は市から来た認定調査員が全部行っていたので、認定調査の日にケアマネが立ち合いサービス利用時の事などの聞き取りを受けるのが普通だったのですが、私以外にケアマネがいなかったので結局私が立ち合いに行って聞き取り調査を受けたのです。

聞き取り調査を受けた日にはすでに腹痛がありました。いわゆる前駆陣痛と言われるものです。

その次の日も仕事には行きませんでしたが、腹痛があるにも関わらず、たくさん歩きました。

次の日、妊婦健診がありました。36週6日での妊婦健診です。

次の日から37週なので、先生が「もういつ産んでもいいですからね」と言いながら、胎児の体重を見て、「もうちょっとお腹の中にいてほしいな」との言葉がある。「ちょっと運動は控えて安静にしましょう」とのこと。胎児が小さいので胎児心拍数モニタリング(NST)をして様子観察。

今みたいに新型コロナウイルスが流行しておらず、産前クラスとしてノルディックウォークに参加しようと思っていたが、それもダメと言われて落胆する。

その日の昼食は唐揚げ専門店でチキン南蛮定食を食べて帰りました。

相変わらず腹痛は続いている。酒飲みの主人にはもしかしたら病院に行かなあかんかもしれへんからと飲酒はやめて欲しいと頼みました。

夜の23時頃腹痛が8〜12分に1回来ることを確認し、陣痛が始まっていることを確認する。

少し様子を見ていたが、夜中の1時に産院に電話して陣痛が来たことを伝える。助産師が「こちらに来て下さい」と言われたので、主人に車で送ってもらい産院に行く。産院は車で5分くらいの所にある。

前日の妊婦健診で胎児が小さいからと朝まで様子見ましょうとのことで、主人に付き添ってもらって朝まで陣痛室で過ごす。

その日は日曜日で院長が朝からやってきて内診をしてもらう。内診の結果、「家も近いし家で様子を見て下さい」とのこと。3年後に真実を聞いたが、この時は子宮口が2センチ開いていたらしい。

助産師たちが言うには、「まだ産まれないから。腹痛も前駆陣痛やろうし。もしかしたら夜になったらまた来なければいけないかも」とのこと。この言葉だけを聞くと、昼に産まれる可能性はないように感じる。

産院の迎えにコンビニがあるが、そこで昼ごはんを購入し、車で家に帰る。正直、腹痛というか陣痛は続いていた。コンビニで買い物をしている最中もこんなんで家に帰って本当に大丈夫だろうかと心配になる。しかし、初めてお産を経験する私には大丈夫かどうかなんてわからない。

家に帰ってトイレに行くと、おしるしのようなものは出ていた。しかし、家に帰された私にはおしるしで病院に再度連絡して行くということは考えられなかった。再度連絡してまた家に帰されたらどうしようと思ってしまうからである。その後も何度もトイレに行って出血は見られていた。陣痛も続いている。でもまだ産まれないとの言葉を信じて痛みに耐えていた。

お酒が好きな主人は日曜の昼間からお酒を飲んでいた。もう車で送ってと言うことも出来ない。病院から帰され、病院へ行く手段も絶たれた私は陣痛の痛みに耐え続けるしかありませんでした。

段々身体が自然にいきみ始める。陣痛室でいきんではいけないと教わっていたので、いきみのがしをしようとするが、勝手に身体がいきんでしまうである。

陣痛の痛みを我慢している私はアドレナリン全開で、主人の前で「いつまでこの痛みに耐えなあかんのよ」とキレた覚えはある。それから30分後、胎児の頭が股に挟まった感覚があった。私は『しまった』と思った。腹痛は本陣痛であり、お産が進んでいたのである。私は産院に電話した。その際に電話越しに助産師には「破水した」と告げたのである。そうすると「歩いて来なさい」と言われた。しかし、もう胎児の頭が股に挟まったアドレナリン全開の私は「もう無理!」と電話越しに叫んだ。さすがに助産師も悟ったのか、「救急車呼びなさい」と言われる。そこで電話は一旦切れる。

そこで自分で救急車を呼べばよかったのだが、主人に「救急車を呼んでほしい」と頼んだ。主人は救急車は呼んだことがないのか、まず番号からわかってなかった。「119やし」と教える。その後、年齢は間違っているし、住所はちゃんと言えないしでもたもた電話をしていたところ、私は最後に大きくいきんでしまった。それは出産する感覚であり、袋入りの鶏肉のようなものを産み落とすような感覚だった。私は自分のベッドの上で子どもを出産してしまったのである。

出産する際は出産する専用の衣類に着替えますが、着替えているはずもなくパジャマを着た状態でした。胎児はパンツの穴を通り抜け、ズボンの中で泣いていました。産まれたばかりの我が子は大きな声で泣いてくれたので、自宅で出産してしまったことは電話の向こうにいる消防指令センターの隊員にもわかったみたいで、主人に対して的確に指示を出してくれました。主人は私のズボンを脱がしてくれ、産まれたばかりの我が子を取り上げてくれました。

その後、主人はソワソワと探し物を始めます。私が「何探してるの」と尋ねると、「毛布ない?」と聞いてきます。毛布の場所はわかっていましたが、説明するのがめんどくさかったので、「もうバスタオルでいいやん」と言いました。主人はバスタオルの場所はわかっていましたし、バスタオルで我が子を包んで羊水を拭いてあげていました。そうこうしているうちに、救急車のサイレンが聞こえてきます。車で5分もしない所に消防署があるので、すぐに救急車は来てくれました。搬送が必要なのが、出産直後の私と産まれてきた赤ん坊の2人であったことから救急車は2台来ていたようです。

救急隊員が到着し、家の中が騒がしくなります。救急隊員の5名ほどが私の周りに来て処置をしてくれました。救急隊員の一人が「臍帯を切っても大丈夫ですか」と質問してきます。私はそれに同意しました。元々主人に臍帯を切って欲しい等といった希望もなかったので、同意する以外の選択肢はありませんでした。臍帯を切った後、救急隊員は「女の子ですよ」と言ってくれました。その後他の隊員が「先に行きますね」と我が子を連れて行きます。搬送先はもちろん産院です。しかし、私の方は多量ではないが出血しており、ベッドも衣類も血液で汚れていたことから搬送先は産院とは違う病院になりそうになっていましたが、ベテランの救急隊員が我が子と同じ産院の名前言ってくれ、産院に搬送されることになりました。

私が住んでいるマンションはエレベーターがあるものの、狭いので3人の救急隊員が私をラバー素材の布に包んで運んでくれました。救急車に主人も同乗し出産予定だった産院に向かいます。5分もすれば到着し、助産師が搬送口で待っていたみたいです。産院に着くと「よく頑張ったんね」と次々に助産師に声をかけられます。ただ、つい4時間前までここに居てもうちょっとここに居させてくれればここでちゃんと産むことが出来たのにと思ったか思わなかったかよく覚えてはいませんが。

搬送後は分娩台に載せられました。分娩しなくても処置などがあるので一応分娩台には載せられるのです。いつもは忙しそうにしている先生ですが、さすがに分娩室の中で待ち構えていました。出産時に会陰が切れてしまったので溶ける糸で縫ってもらいました。点滴もしてもらい、分娩台でゆっくりしていると、主人の両親も到着。保育器に入っている我が子に面会してもらいました。

出産した我が子は2134gしかなく、いわゆる低出生体重児でした。一応保育器で過ごしてもらうとのことで、一晩は保育器で過ごしました。

次の日、主人は休みを取り、面会に来てくれました。普通ならば出産した次の日から母子同室なのですが、低出生体重児の娘は産まれた次の日の朝に保育器から出て、新生児室で過ごしていました。昼食後に新生児室を覗くと我が子のみが寝ていました。低出生体重児とは思えないくらい元気で、手足をバタバタさせていました。そんな様子を見ていた助産師さんが「もうお部屋に連れて帰りますか」と尋ねてくれて、母乳指導をしてもらって母子同室になりました。

当時は新型コロナウイルスの流行はなく、入院中はいろいろな指導や講座が開催されており、しんどい身体を押して参加する必要がありました。しかも、昼食もレストランで同じく入院中のママと一緒にご飯を食べていました。面会も自由で、特に制限などもありませんでした。昔は良かったと思う今日この頃です。

こんな感じで怒涛の5日間の入院を終えて、主人の実家でお世話になる事となりました。上の子の出産はとりあえず初めてのことばかりで分からないまま突入して自宅出産となってしまったわけです。今考えると、戸籍のない子にならなくて良かった、とか、無事に元気な赤ん坊を出産できてよかったとか思うばかりです。この出産から3年後、再び出産を経験することになるのですが、その内容については詳しく次回の投稿でお伝えしたいと思います。


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